室生寺
 奈良県宇陀市室生に所在する室生寺は、室生川の右岸山間の傾斜地に南面して建つ名刹でその創建は奈良時代末期に遡ると考えられている。『続日本紀』によれば宝亀8年(777)12月と翌年3月に東宮・山部親王(後の桓武天皇)の病気のことが記されており、その平癒を願って〝浄行僧″五人を招き請い室生山中で「延寿法」を行わせたところ病気は回復された。 その後、興福寺の大僧都賢璟は天皇の仰せを受けて同家のために件の山寺(室生山寺)を創建したという記事が室生寺に関する現存最古の記録である『宀一山年分度者奏状』(神奈川・金沢文庫蔵)にある。この地は地形が急峻で龍王が住むと言われ旱魃の毎に折雨法要が営まれた土地としても名高い。 賢璟は興福寺の僧として宣教について唯識を学んだ硯学であるが、わが国に戒律をもたらした鑑真和上にも深く帰依して律学も学んだ。 延暦12年(793)には大納言藤原小黒麻呂や参議左大弁紀古佐美と共に新しく遷都すべき葛野の地相を占していることも知られる。彼はその年の秋八十歳で寂しているが、この時にはまだ伽藍は整わず、山林修行を行う山寺の状況であったと思われる。賢璟を継いだのが同じく興福寺出身の修円である。 修円は比叙山を開いた五歳年長の最澄とも親交が深く延暦13年に行われた比叡山根本中堂供養に堂達として参加しており、同21年には高雄山寺で最澄から天台の妙旨を聴聞し、最澄の入唐帰国後には初の灌頂三摩耶戒を受け、野寺(常住寺)において天台法文の学習も行っている。延暦24年の内侍宣には〝檉生禅師″と記されており、当時既に室生を活動の本拠としていたことが解る。 名高い空海の尺牘『風信帖』(京都・教王護国寺蔵)には〝室山″と書かれ空海との交友も知られる。 弘仁8年(812)6月の『日本紀略』には「律師伝燈大法師修円を室生山に遣し、雨を祈る」の記事があり、これが「室生山」の文字が公の記録に表れた最初と思われる。既にこの頃になると堂塔もかなり整備されていたのではあるまいか。初期の室生寺は法相宗を主体とする寺ではあったが、最澄との交流によって天台教学にも道を開いており、天長11年(833)の初代天台座主義真の没後は叡山を追われた弟子の円修や堅慧が室生に入り、その後入唐して大唐会昌4年(844)天台山禅林寺の如静から『大唐日本国付法血脈図記』(滋賀・園城寺蔵)を得、帰国ののち最澄によってもたらされた日本天台の正統は室生寺に引き継がれることになる。しかし、この文書は貞観16年(874)円珍か第五代天台座主となった防義真の系統を引く円珍に引き渡された。また、室生寺には空海の高弟である真泰も入山しており真言密教が導入されたことも特筆すべきことであろう。山林修行の場であった室生寺は平安時代中期から、法相・天台・真言の各宗兼学の道場であったが、元禄年間護持院隆光の計らいで真言宗に編人され、女人禁制であった高野山に対し〝女人高野″として多くの人々に親しまれるようになった。